奈良のむかしばなし 考女伊麻と鰻(こうじょいまとうなぎ)
昔、悪病が流行した時、うなぎを食べると早く治るとされていました。親孝行な伊麻という娘の父が病気になった時、弟と二人でうなぎを探しましたが見つかりませんでた。その夜、水がめの中から音がするので、火を灯して見ると大きなうなぎが泳いでいました。早速料理をして父に食べさせるとたちまち病気が回復したと伝えられています。その姿をあらわした「うなぎと伊麻」の像が、奈良県葛城市磐城小学校に設置されています。
今市村(現在の葛城市南今市)に実在したといわれる親孝行な姉弟のお話。姉の伊麻と、弟の長兵衛(ちょうべえ)。
寛文(かんぶん)十一年(一六七一)の夏、疫病(えきびょう)が流行した。姉弟の父も病に倒れ、食事も取れずに衰弱していた。二人は昼夜を問わず介抱に努めたが、一向に良くならなかった。
ある時、鰻が病気に良いと聞き、二人は急ぎ八方手を尽くして鰻を求めた。だが、なかなか見つからない。
二人が途方に暮れていると、夜、水甕(みずがめ)の中で何やら音がした。灯りを近づけて中を見ると、何と、大きな鰻が泳いでいるではないか。
二人は喜び、さっそく調理して父に食べさせた。すると、父の病気はぐんぐんと快方に向かい、やがて平癒(へいゆ)したという。
この親孝行な伊麻のお話は、当時、相当有名で 俳聖、松尾芭蕉(まつおばしょう)も、この話を聞き、貞享(じょうきょう)五年(一六八八)四月十二日、『笈(おい)の小文(こぶみ)』の旅の途中、わざわざ伊麻に会いに訪れている。鰻の話から十七年がたっていた。
芭蕉が伊賀の弟子の遠雖(えんすい)に送った書簡によると、芭蕉はその時、鰻のいた水甕も見せてもらい、藁筵(わらむしろ)の上で茶や酒のもてなしも受けた。当の本人から直接話を聞き、その孝養のまことに触れて非常に感激した。
芭蕉に同行していた弟子の万菊も深く心を打たれ、感涙を抑えきれなかった。ちょうど衣替えの季節でもあり、衣類を売って得た代金を、志(こころざし)として伊麻に贈ったという。
その四年前、芭蕉は『野ざらし紀行』の旅で當麻の竹ノ内村にしばらく滞在した。その時に伊麻の話を聞いたのではないか、と言われている。
実は、当時、徳川幕府は儒教の教えを重んじる政策を推進していた。孝子(親孝行な子ども)を称える風潮が諸国に広まっていたようだ。
この美談は、今も語り継がれている。「孝女伊麻像」や「孝子碑」などが残る。二月二十七日に営まれる「追善法要」では、小学校の児童、地域の人々がお参りに訪れ、近くの現徳寺で「徳」についての講話もある。「奈良県HP引用」