養鰻業に携わる知っておきたい豆知識

ウナギの産卵は海洋で行なう

下り鰻は断食すると、消化管が退化する。鰻は絶食に強い魚で、エサを食べずに1年以上も飼育した例も当研究室で実験済である。水槽には単体で飼育する必要があり飼育水の水温でも生存の長さは異なる。
下り鰻は自ら断食するが、体が衰弱する事はない。ふつう魚がエサ不足で飢餓(きが)状態になると肝臓をはじめ、主要な内臓器官はみるみる退縮して衰弱するが、断食した鰻には、このような症状は現われる事はなく筋肉に脂質が蓄積され、生殖巣にいたっては成熟が進すみ肥大しはじめる。断食を機に、体の組成の再編成がおこなわれ、長旅と産卵の準備が整えられる。

 

浸透圧調節能力を持つ鰻

鰻は環境の水質に、適応する調節能力を持っている。海水は淡水の約100倍近くの塩分を含んでいて、物理的にも化学的にも大きな差異がある。
こうした差異の環境に、容易に順応することは大変なことで淡水魚は淡水よりも濃い体液を常に保っており、水は組織を通して、体液に浸透しようとしす皮膚にある粘液細胞が調節に役立っている。粘液の成分(ムチン)が不透膜となって、水を通さない働きをしている。鰻の表皮の粘液と分泌細胞をタオルなどで取り除くと、防水性がなくなり、体内に急激に水が浸入する。すると腎臓の機能が十分に対応できず鰻は水膨れの状態になって死ぬ。強いエアレーションなどで休憩する場所も作れない小さい水槽での養殖は、溶存酸素の確保で大変調整が難しくなる。ヌメリが無くなる事により水膨れ状態になるのは表皮が水の浸透を防ぐ保護作用しているのである。
皮膚は鱗(うろこ)や粘膜におおわれているから浸透を防ぐが多量の水分は、鰓(エラ)と口腔粘膜から浸透する。 体内に入った水分は血液を薄め、血液中の水分は腎臓で濾過され、水と塩類が細尿管内に分泌される。ここで塩類だけが再び吸収されて、多量の薄い尿を排泄することになる。 こうして、魚は塩分量を維持するのであるが、エサを鰓にある塩類吸収細胞で吸収した塩分で、それを補充する。 水分は腎臓の作用で排泄されても、まだ過剰になりがちなので、消化管から水を吸収する必要がまったくない。つまり、淡水魚は水を飲まないのである。
一方、海産魚の体液の浸透圧は海水よりも低いので、絶えず体内の水分が体外に出る。そこで、海産魚は海水から水を吸収する必要があり、塩類はまったく不要であり排泄したほうがいい。そこで、海水を水と塩類にわけるため、消化管の壁を通じて、水と塩類を同時に吸収し、塩類だけを尿、その他の方法で排泄し、水分はできるだけ体内に維持する必要がある。過剰の塩類は鰓にある特別の分泌細胞を通じて排泄される。つまり、淡水魚は水ぶくれにならないようにしなければならないし、塩類を吸収するのに反して、海産魚は干からびないように水分を吸収し、塩分を排泄する。
鰻は川から海に下るためには、浸透圧調節の作業を淡水型から、正反対の海水型へ切り替えなければならない。降海は一歩誤れば、死につながる命がけの行動だが、鰻はその能力をもっている。
淡水に生活している鰻を海水に移すと、活発に活動することができる。これは塩分の変化に対して、広範囲で調節できる機能があるからである。 鰻を海水に移すと、2日間に10~15%の体重減少があるが、次第に回復し1週間もたつと、ほぼ最初の体重にもどる。 この体重回復は、尿量の減少と水を飲む量の増加によっておこる。動物の行動にはホルモンの働きがあり、鰻が浸透圧調節作用の切り替え準備をさせるのに、内分泌ホルモンの働きがある。つまり、脳下垂体のない鰻は海水中で浸透圧の調節ができないことになる。調節には内分泌ホルモンが、鰻の延髄(えんずい)に、すみやかに作用して、腸の水輸送能力や、鰓(えら)の塩類排出能力が活発となり、塩類濃度の大きな差をスムースに克服するのである。鰻とは反対に、春になると川へのぼって川底に巣を作って産卵するイトヨでは少し違ってくる。春に海でつかまえたイトヨを直接淡水に入れても死ぬようなことはないが、冬に同じような実験をすると、10日もたつと死んでしまう。海水から淡水へ移したときの血液の浸透圧を測ると、春になって川へのぼる準備のできたイトヨでは、一時的に10%近く低下するが、4時間後には完全に元のとおりに回復して、淡水生活に適応する。しかし、冬のイトヨでは淡水へ移すと、血液の浸透圧は急速に低下して、20%近くも低くなり、その後、いくぶん回復するが24時間後でも、元のとおりに回復せず、そのうちに死ぬ。
このことから、イトヨでも、川へのぼる前に、浸透圧調節作業を海水型から淡水型へ切り替える準備のため、脳下垂体から盛んにホルモンを分泌するのである。 イトヨが分布する地方では、冬から春にかけて日照時間が次第に長くなる。この季節の移り変わりをイトヨは感じとり、ホルモン分泌が盛んになり、川へのぼる準備をはじめるのである。
冬の間に、人工的に光の照射時間を長くすると、イトヨは薄い尿を排泄するようになり、淡水へ移しても死ぬようなことはない。 動物の行動にはホルモンが重要な役割をはたすといわれるがウナギが海へ下るとき、イトヨが川へのぼるときに、体内の浸透圧調節にホルモンが重要な働きをする。

 

雌雄の区分

海への順応ができた雌雄の鰻は、産卵場へ向かうが、性別を外観で区分するのは難しく判断するには解剖して、消化管の両側に沿って細く長くある卵巣と精巣を調べることが必要で、生殖腺が区分できるのは、体長25㎝以上であるのが標準である。しかし、42㎝の大きさでも、まだ生殖腺が発達していない場合もある。生殖腺の発達には、時期的に不規則であり、また年齢や生息場所や栄養状態などによっても異なる。卵巣は長い横じわのあるリボンに、小さなひだを入れたような膜で、やわらかくヒラヒラしており、白色に近い卵黄色である。肝臓の先端からはじまって、消化管の両側にあり、後方は肛門よりも後に伸びて、腎臓の両側に達している。
★精巣の位置は、卵巣と同じである。しかし、精虫が発生するほど成熟したものは、ほとんど獲れていない。
★成長した鰻では、雄は雌よりも小型である。50㎝以上の雄鰻はとても珍しいが、雌では、それがふつうである。
★外観上で、最もはっきりした違いは、胸鰭の長さで、雌は雄よりも短く、しかも先が丸味をおび、扇状に広がっている。
★雄はかなり長く、第一軟条の先がとがり、先端部は鋭角に曲がっているので、一見して紡錘状である。
★眼径であるが、雄は著しく大きく、雌は著しく小さい。また両眼の間の幅が、雄は雌よりも大きいことである。
以上のように、体の大きさ、胸鰭の形と大きさ、眼径および眼間距離の5つが、雌雄を区別する有効な基準となる。 しかし、鰻の雌雄を外観で決めるのは、中間型というか、雌の特徴を持ちながら雄であったり、また反対であったりする鰻が非常に多いために、判定が難しい。 バイカラーの場合クロコの時期約10㌘くらいから雌雄の変化が出来てくる。両性の性的特徴としての外観が変化して、中間型が生じてくるためである。

鰻の寿命と生理

鰻は産卵場に到着して、生殖を終えると、雌雄とも死ぬものと考えられ、鰻の生殖腺はどの個体も、ほとんど同時に成熟し、また同時にすべての卵を放出するが、このような産卵習性を持っている魚類、たとえばサケやアユなどは、みな産卵すると死ぬので、鰻も同様に考えられるのである。自然のままの鰻の寿命はこれで終わるわけであるが、池や水槽では異なってくる。
成熟しても海に下らず、生殖行事がおさえられた鰻は長く生きられる。ふつう、鰻の寿命として発表しているのは、飼育されたものの年齢を調べているのでありおおよそ50~80年と思われる。
研究などで管理飼育するときは、その間の年数を数えれば確定できるが、自然での寿命を決めるには、年齢を調べる必要がある。その方法は、鱗か耳石に生ずる輪紋の数で判断する。
耳石は聴覚器に内臓された小片で誤差は少ない。

鰻の血清

鰻の血清は有毒である。眼に入ると結膜炎を起こし、指などの傷口につくと、一種の皮膚炎を起こす。この毒性は、イクシオトキシンという物質によるもので、6年を経過したものでも毒性を失わない。しかし、熱には非常に弱く、煮たり焼いたりすると毒性はなくなり消化や腐敗によっても、その毒性は失われる。したがって、鰻を料理するとき、その血液が、小さな傷口などから大量に身体に入らないように注意すればよく、フグのテトラドトキシンという猛毒や毒蛇のそれとは、まったく性質が異なる。鰻の血清(ふつう魚の血清は人間と同じように薄黄色であるが、鰻は美しい緑色を呈する)は人類の血球に対して、凝集反応を示すことが発見された。この性質を利用して、E式血液型によって、きわめて複雑な親子関係を鑑別することができ、法医学上、大変役立っている。

鰻は嗅覚が発達している

この他、鰻の生理であげることに、嗅覚のことがある。 鰻は視覚よりも嗅覚がとても発達していて、養鰻池でエサを与えるとき、大群が集まるのは、エサから出る汁の中に含まれる化学物質が、水を通して感覚細胞を刺激し、脳に伝わり、化学物質の濃いほうへと鰻が近づき、エサに集まるからである。そしてエサに接近してからは、視覚で確認し、口に運ぶのである。鰻の嗅覚器の大きさは、脳髄全体より大きく、その器内の神経が分布しているヒダが非常によく発達している。ふつう魚類の眼の大きさと嗅覚器の発達は密接な関係があり、実際、鰻の眼経は小さい。小さいことは、嗅覚器がよく発達していることを表わしている。つまり、眼の小さい魚には、においのあるエサを用いるとよい。

一生一度の産卵

親鰻が産卵場となる高水温高塩分の深海の中層に長旅をして、ようやく到着し、産卵を終えると、親鰻はその一生を終えると言われている。
ニホンウナギの産卵場は長い間不明であり、松井魁博士が昭和27年琉球海溝説を最初に発表した。昭和36年から昭和48年にかけての仔魚採集に成功し証明されたのである。その産卵場は、北緯20度以北から28度以南、西側は沖縄列島、東側は小笠原列島、東経145度付近で囲まれた海域の可能性があるが、その海域のうちで、台湾東海岸から沖縄にかけて存在する琉球海溝を含めて、北大東島、南大東島を経て、ラサ島を結び、北緯20度を南限とする、ほぼ長楕円形の海域が最有力であるという説を、仔魚の採集によって証明したものである。
世界の産卵場を数多く発見したシュミット博士も、台湾周辺や東シナ海を1939年~42年に調査し、日本近海の調査まで希望してきたが、軍事的考慮から日本の反対を受け実施できず、そして、この時は、仔魚を採集することができなかった。ヨーロッパ産鰻やインド洋産鰻の産卵場が発見されてから、ニホンウナギだけ不明だったことの理由は次の通りである。
まず、産業発展が優先して、その基礎となる科学的調査研究が軽視されて、必要経費に対する官民あげての支援がなかったことである。ついで、ニホンウナギの仔魚であるレプトセファラスに関する分類学的研究が遅れたことである。ハモ、アナゴ、ウミヘビ、ウツボなど無足類に属する魚たちはレプトセファラスの時代を経るのだが、この分類研究が進展していなかった。
最後に、この海域は冬季、季節風のため長期間停船調査ができない。などがあげられる。

ウナギの成長過程

鰻の産卵期間は、早春から夏の中ごろまでの比較的長期間にわたっているようである。 産卵とふ化は、水深300~500mの中層で、その中層は水温が16~17℃、塩分量が35%以上の親魚や卵にとって最良の環境で行われる。1尾の雌鰻は、約300~700万粒の分離性の浮遊卵を産卵する。これは深海の中層を浮遊しながら、ふ化をするため、決して海底には産卵しない。
卵の形は、球形で、その値は1~1.3mm内外であり、透明で少し乳白色を帯びている。昭和48年(1973)に、世界で初めて、鰻のふ化に成功した故山本喜一郎博士らの実験によると、水温で23℃では38時間で受精後ふ化する。ふ化した仔魚の大きさは約3mmであるが1週間後に6mmに成長する。ふ化した仔魚は直ちに表層に向かって上昇し、水深100~300mの中層で最も多く採集される。 さらに成長すると、水深30mにまで上昇してくる。昼間は30m層を、夜間は表層に浮かび、いわゆる昼夜交替の上下移動をしながら、表層流によって、各方面に分散し各地に接岸しはじめるのである。卵からふ化した仔魚が、親とは似ても似つかぬ無色透明のヤナギの広葉のような形で育ち、海中にただよっている。この時期の幼魚をレプトセファラスという。親もレプトセファラスも海流に影響されて長旅をしているのである。レプトセファラスの体は、たいへん軽く、筋肉や骨も薄弱で、体内に多量の水を貯えて比重を小さくする構造である。ですから、自分で運動しなくても体は浮き、変態のときには、余分の水を放出すると同時に骨格や筋肉が発達して、体が著しく縮小し、比重は大きくなる。レプトセファラスは旅が終るとウナギ型に変わる。ヨーロッパ産鰻は、ふ化後3年がかりでヨーロッパ大陸に達し、河をのぼりはじめる。その間の成長度は、6月の測定で、1年目は25mm、2年目で53mmのレトセファラス時代,3年目の75mmは変態したシラスウナギである。アメリカ産鰻は、ヨーロッパ産鰻と、ほぼ同一海域に産卵場を持つものであるのだが、産卵場からの距離と海流の速さの差異で1年以内に沿岸に接近することができる。
ニホンウナギはアメリカ産鰻と同じで、1年以内に産卵場から沿岸に接近して河を昇る。鰻の仔魚は前にも述べたように自力で泳ぐというよりも、産卵場から沿岸までの距離を海流の速さに任せて泳いでいるわけである。

シラスウナギ

沿岸に接近した仔魚は、水深200m以内の海底で秋季に変態してシラスウナギとなる。このように、いかにも海流に身を任せ漂白の旅を続ける稚魚はその途中で外敵に食われてしまうことが多い。
ウナギやボラ(マボラ)は比較的効率よく旅をするほうであるが、実際に産卵場から目的地まで到着するのは、全体の何%なのかは不明である。
魚はこのように稚魚時代に外敵に食べられたり、病気になって死んでしまうことを考えて、きわめて多くの卵を産むのである。のんびりやの代名詞にもなっているマンボウは3憶、ウナギでは760万、マグロでは100万以上という卵を産卵し、その不足を補うのである。つまり、産卵数の多い魚ほど、その子孫の損耗が多いといえる。したがって、親が子を保育する習性をもっている魚では、子孫の損耗が少ないため産卵数も少ないことが分かる。

シラスウナギの溯河

変態したばかりのシラスウナギは、全長4.6~6.6mmで、それまでの柳葉波状をした扁平な形態から準円筒状に変化する。つまり、余分の水を放出すると同時に骨格や筋肉が発達してくる。
腸は短縮し、歯は永久歯となる。体も著しく縮小し、その比重も大きくなる。この時期は河口近くの沿岸などの海底の泥の中、木の枝、海藻、岩磯の下にもぐって過ごす。そして、河川水温があたたまったり、満潮時刻、日没時刻、潮高などが溯河に好適になるまで待っている。この時期は10月初旬から5月下旬で、最盛期は沿岸水と河川水の水温差が小さくなる、2~3月ごろである。
もちろん日本列島では、南ほど早く、黒潮の影響が強い、内海よりも外海に面した海岸の方が早い。 その行動は、ほとんど夜間であり、日没と同時に動き出し、満潮に乗って河をのぼり、明けがた近くなると終るのが普通である。 1日で最も盛んな時間は、日没後3時間以内である。そのときの体は透明で、心臓の鼓動が外部からもよく観察でき、消化管内には有機物の残りカスが満たされている。シラスウナギは、成長するにしたがって体色素が増加して、黒色を帯び、クロコとなり、5月頃には、シラスウナギに混じってクロコが多くなる。
7月頃には体長15cmぐらいまで成長したものも河をのぼりり、8月には次第に減少してくる。 これらの鰻の仔魚は、いったん河をのぼり始めると、どんな障害があっても、それを超えて、ただ前進するのである。 カニ、エビ、貝、小魚などの動物性のエサを食べながら、少し湿気と小さな流れさえあれば、どんどんとのぼる。とても登れそうにない断崖でも、のぼっては落ちの連続を繰り返し、ついに成功するのである。揚子江では河口から2,000Kmもある上流の四川省までのぼるし、ナイアガラ瀑布さえものぼりつめ、エリー湖に達するという。このような状況は、各地の電源開発でできたダムに向かう、鰻の溯上報告でも分かる。河口から莫大な数の鰻が群れをなして、のぼる様子は壮観である。 そして、河川の両岸に沿って川の水が色変わりするほどあったが現在では残念ながら見ることはできない。 鰻はいろいろな障害を乗り越えて、目的地の小溝、川、湖沼、潟などに生息すると、昼間は、岩陰、穴、泥の中にひそみ、夜間は活発に泳ぎ、盛んにエサをあさる。貧食な魚であるが、その縄張り範囲は比較的狭く、60~140mぐらいである。春から秋にかけてエサをとる量が増え、初秋に最もよく成長する。これは、越冬のためにエサをよく食べるからである。水温が15℃以下になると急に食欲が減退し、10℃になると、エサをとらなくなる。鰻の天然のエサは、貝、小魚、昆虫、エビ、カエルなどである。冬はエサを食べず、泥の中にもぐって、ほとんど出ない。しかし冬でも断続的に水温が10℃以上になることがあるが、そんな時は、浮かびでてエサを取ったりする。

下りウナギ

河川、湖沼に生息する鰻は、成熟するまで、春から8月下旬ごろまで、常に上流に向かってのぼる性質が認められるが、9月中旬ごろに水温が下りはじめると、一部は下流に向かって、流れにしたがう性質に変わる。しかも、風雨の時に移動が多い傾向がある。この現象は、上流が寒冷であるため、下流は上流に比較して、あたたかいため冬は下流の深い場所を求めて移動する。そこで越冬をして、春になると、また上流へ移動する。 こうして、雄魚は3~8年、雌魚は雄魚よりも1年ぐらい遅れて成熟する。 成熟年齢に達した親魚は、9月下旬ごろから10月下旬ごろになると、体の色素が蒼黒色となり、側面はうっすらした黄金色の光沢が出てくる。腹部は薄紅色を呈して、胸鰭(むなびれ)の基部は金箔(きんぱく)色を呈する。つまり、婚姻色を帯びてきて、河口から海に下り、産卵場へと向かうわけである。この時期は北部は早く、南部ほど遅れて下る。この鰻を下り鰻といい、まだ生殖行動をするほどは成熟していないので、雌雄が一緒に群をなして降下する。 海に下り始めると、絶食に入り、決してエサをとろうとしない。したがって消化管が、しだいに退化してくるのである。そのため、下り鰻は網や簗(やな)などでは、多量に獲れるのだが、好物のエサをつけてある釣り針には、まったくかかることがない。 下り鰻は、ひたすら、産卵場に向かって海流にさからって旅をするわけであるが、遊泳速度は1日に8~32カイリ、場合によって、環境が下り鰻に好都合であると、1日に30~60カイリも進むことがある。

幼鰻(シラスウナギ)漁

種苗の漁法は、魚が元気であって、無傷で漁獲する必要があるため、三角形状などの手網のものが多く、きわめて簡単な漁具で、小規模におこなわれることが多い。その網の大きさは、寒気の中で、長時間にわたって作業をするので、あまり大きくないものである。夜間におこなうために、灯火を必要とするが、シラスウナギの魚群を確認できる程度の光度でする。鰻には光りに集まる習性は期待されないので、むしろ光が強力すぎると、水温の高い時期には、逃避さえする逆効果となる。獲れたシラスウナギは、水がよく流通するように、約3mm目の金網を張った木製の容器に入れる。1日に4kg以上獲れる場合には、鰻の輸送用の重ねざるの内面に、さらし木綿を内張りしておけば、このざるには4~7kgぐらいは入れることができる。 獲れたシラスウナギは、採集直後か、そのつぎの朝には問屋に渡される。 そこで直径40cmの竹ざるに入れ、10個ぐらい重ねて水を通して1日間蓄養する。(蓄養中のシラスウナギは、ふつう10~20%はへい死する)。 そして、問屋から養鰻業者にトラック輸送するが、輸送時間が10時間で、そのへい死率は10%以下である。シラスウナギを手網によらず、大量に漁獲したいと思う漁法としては、浜名湖、利根川などで使用される鰻袋網と称する定置網がある。網は嚢(ふくろ)と両翼からなっており、木、竹杭で水流を横断して定設し、シラスウナギが自然に嚢網の中に、入るようにしてある。網の大きさは、使用水面の広さによって異なり、水の勢いが急でなく、網の入口の2/3ぐらいが、水中にある程度の水深に設置し、30分~1時間おきに捕獲シラスを移す。茨城県では、小網ですくう小規模の漁獲のほか掛袋網で大量漁獲する。浜中湖ではメッコ網と称する待網を、夜間の満潮時にミオスジに張って漁をする。

外国でのシラスウナギ漁

ドイツでは古くから、シラスウナギを内水面に移殖放流するために、河口岸で、すくい網で獲っている。網の形は、長方形や円形状のものである。 フランスでは、船による巾着網(きんちゃくあみ)で漁獲し、オランダでは、シラスウナギが河をのぼる前に、沿岸の海底に生息して、夜間浮上して活動するのを漁獲するため、トロール船の中層びきでひき網をするか、停船して潮流の動きを利用して獲る方法で漁をする。

成鰻(ウナギ)漁

現在の市場に出回わっている鰻は、ほとんど養殖によるものであり、天然ものが占める割合は全体の5%にも満たない。
日本の漁法を説明するが、日本と外国で比較してみると、かなり類似したものがある。
★鰻突★
竿先についたモリで鰻を突くもので、河川か入江に、1人乗りの川船で、箱めがねを使って川底をのぞき、鰻を突いて獲る漁法である。
★鰻筒★
鰻が明るい場所を嫌い、穴を好む性質を利用した漁法であるが、筌よりも漁獲率は劣る。これは、直径7~15cmぐらいの直竹を2節つけて、切断して一方の節は除き、底の方の節はそのまま残す。入口の近くに孔(あな)をあけて糸を通し、糸の一端を結びつけて、水の中に入れる。取りあげるときは、筒を徐々に水際まで引っぱり、すくい網で受け、浅い場所では両端を両手でふさいで取りあげるため、とても不便ではある。
★手繰網★
船上から投網して、船上に引きあげる漁法で、茨城、千葉の利根川付近でおこなわれ、漁期は5~10月である。
★長袋網★
霞が浦沿岸で広く使用され、漁期は、春と秋の彼岸後の夜が最盛期で、漁場はゆるやかな水流で、水深4mぐらいの水底が砂質のところが最適である。鰻の他、スズキ、マルタなどの稚魚も獲れる定置網漁で、このやや小型のものが、待網漁である。
★穴釣★
長さ1mぐらいの藤竹の竿の先に鉤を結び、その鉤にエサをつけて、鰻の潜伏しやすい所に鉤を竿にかけたまま、静かにさし入れ、エサに食いついたときに、充分食い込ませ、よく引っかけたら、徐々に引き出す。エサはミミズのほか、アユ、ドジョウを用い、全国各地でおこなわれている。
★笹漬(浸)又は紫漬★
やはり、鰻が暗い場所に好んで潜る習性を利用したもので、全国各地におこなわれている。笹や椎、楢、栗などの葉がついた小枝を1m内外、根元をよく束ねて、強い幹(ミキ)繩に1.5~2m間隔で、枝(エダ)繩をもって多数結びつける。1夜を経過したら、ゆっくりとたぐって枝繩をあげて、水面近くなったら、三角網で受け、水から離して束を振ると、鰻や稚魚が獲れる。晩秋から初春に効果のある漁法である。
★筌(せん)★
鰻筌は、細い割竹を細いシュロ縄で数ヵ所を編んでロート状にしたもので、中に、タニシ、サナギの粉末と、あぶったヌカを混ぜて練ったものなどのエサを入れる。1度入った鰻は2度と出られないようになっている。この漁具は、最も原始的なものの1種とされている。この筌をそのまま水中にしずめる場合や連結して延繩(はえなわ)式にする場合もあり、堰(せき)を築いて、鰻を誘導する堰筌とする漁法がある。
★挿釣★
鰻はとても用心深く、りこうな魚であるので、穴釣はかなりベテランでないと、引き合わす加減が難しい。度々釣を外(はず)すと、深い穴底に入って、エサに食いつかなくなる。そこで穴釣に失敗した穴には、この挿釣魚にする。これは、穴に鉤を挿入(そうにゅう)して置きしばらくしてあげるか、1夜を置いてから引きあげる方法で、鉤の形はソデ形が有利である。
★鰻倉★
河水の平水が、40~60cmぐらいの静かな下流地域の漁場に、こぶし大の丸い石を周囲2~3mぐらいの大きさに凸形に積みあげ、水面から 20~30cmぐらい上に出す。これを水の勢いにしたがって、各所に多数設置すると、鰻はこの中に侵入する。この石倉の周囲を細目の網で囲み、徐々に石を取りはずし、潜入した鰻を獲る。
★鰻簗★
河水の平水が、40~60cmぐらいの静かな下流地域の漁場に、こぶし大の丸い石を周囲2~3mぐらいの大きさに凸形に積みあげ、水面から 20~30cmぐらい上に出す。これを水の勢いにしたがって、各所に多数設置すると、鰻はこの中に侵入する。この石倉の周囲を細目の網で囲み、徐々に石を取りはずし、潜入した鰻を獲る。
★鰻簗★
秋季の下り鰻を獲る漁法のひとつである。河の両岸に、肩幅2mぐらいの小舟2せきを約8m間隔に水流に向けて並べ、胴木でつなぎ、この間に簗網枠を作り、網または簗を作って漁獲する。暗夜に使い、降雨、出水時などでは多量に獲れる漁法である。
★延縄漁(はえなわ)★
ごくふつうの漁法で、水面の広い場所で使われる。延縄につける釣鉤は各地で異なり、使うエサも、ドジョウ、ワカサギ、タニシ、エビなどと、各地でも漁期でも異なる。漁期は3月から12月ごろまでである。
★鰻掻(うなぎかき)鰻鎌★
鰻鎌は鰻鉤、鰻掻ともいい、全国各地で広く使われているが、少しずつ違うところがある。竹の柄に、はめて使う。漁法は、1人乗りの小舟で、鰻鎌を真直に水中に下し、鉤の先を前方の泥中に約1mぐらいを走らせ、鰻をひっかけるもので千掻き1回(1,000回かいて1回とれる)くらい難しい。このほか、網に足などで追い込む鰻踏漁などがあるが、多くの漁獲量は期待できない。
★手釣★
一名、ブッコミ釣というものでオモリとエサづけした鉤を、なるべく遠くの下流に投げ入れ、ひとさし指と親指で、軽く持ち、アタリがあれば、1mぐらい引きかげんで合わせる。

世界の鰻料理

外国では、日本ほど調理に凝らず、ぶつ切りにして煮込みとかスープに、また燻製などの簡単な料理方法が多い。
中国
北部では、無鱗魚として好まれないが、中南部の特に沿岸の人たちはよく食べる。ふつうはメン類のだしに広く使う。一般には、輪切りにして油でサッと炒め、しょうゆで煮て食べるが、紅わい(鰻の味噌煮)というのは、輪切りにして、ゆでた後、酒や味噌等の調味料と一緒に煮しめたものである。杭州は塩づけにし、上海ではヨーロッパの影響を受けて燻製にする。
台湾
一般家庭では食用することはまれで、食べる場合は強壮強精食品であり、料理法は、八珍といわれる葯味(やくみ)の適当量を煎(せん)じて葯湯をとる。そして鰻を生きたまま酒につけ、酒に参った鰻を葯湯に移して、器にふたをして、その器ごと蒸し鍋に入れて、鰻が煮えるまで蒸しあげる。紅焼河鰻は、鰻の頭を切って殺した後、沸騰した湯に3分間入れて取り出し、タワシでぬめりを除き、内臓を除去後、洗って3cmぐらいをブツ切りにする。一方、甘栗を強火の油で1分間揚げて、表面が、きつね色になったら取りあげる。そして鍋に、ねぎ、しょうが、鰻を入れて炒め甘栗、酒、しょうゆ、砂糖、こしょう、水を入れて蒸し、片栗粉を水に溶かし、ソースを入れた液を混入して仕上げる。
韓国
鰻を丸のまま、1日中水煮して薬用にする。
ドイツ
薬味草入りソースかけは、大型の鰻を、胸鰭の真下をひもでしばって釘にかけてつるし、ひもの下を裂き、塩をつけた手で皮を深くはぐ。そして、あごの肉の部分だけを切り、そこから下に引っぱると、頭に内臓がついて残り、肉と分けることができる。バターと小麦粉と魚から取った汁でホワイトソースを作る。
デクル、ケンベル、パセリの薬味にみじん切りのタマネギとホワイトソースを加えて、煮立て、それをこして、鰻を入れ、20分間煮通し、鰻を取り出し保温しておく。残りの煮汁に卵黄を落として、かきまぜ、さらに薬味を刻んでレモン汁を加え、ソースを作り、鰻の上にかけ、きゅうりのクリーム和えをそえる。
セージ巻きは、鰻の肉に塩とレモン汁をふって下味をつけ、セージの生葉に包む。バターを溶かした鍋に入れ、バターを時々すくって、鰻にかけながら、弱火で10~15分間で焼き上げる。そして、セージの葉を取り除き、温めた皿に新たにセージの生葉3~4枚をひいた上に盛り、焦げ色のついたバターをかけ、小さなジャガイモの塩ゆでをつけ合わせる。
ハンブル風スープは、鰻の皮、内臓を除き、適当な長さに切り、よく水洗い後、30分ほど酢と塩と香辛料とを混ぜた液につけ込む。このつけ汁は、鰻と共に後でスープに入れる。スープは、骨付きハムを野菜類と水に戻したアンズと、煮物用なしとを加えて煮込む。そしてハムだけを取り出し、肉をそぎ取って細く裂く。
味つけは、塩、砂糖、レモン汁または白ワインで甘酢っぱくする。この甘酢っぱさが鰻スープの独特なもので、著名な北ドイツ料理のひとつである。
その他、北部の寒冷な地方では、燻製鰻が賞味される。
フランス
クールブイヨン煮は、精肉に処理した鰻を6cmの切り身か、丸ごとをバター焼き鍋に並べ、ニンニクとブーケ・ガルニを加え、食塩とこしょうで味加減をして、ワインを入れ、玉ねぎとにんじんを加えて煮る。煮汁は目の細かいスープにこす。このように煮たものを、フライや網焼きに、またタルタル風やマトロット料理にする。

以上が主な料理であるが、鰻は以上の国の他、イギリス、ベルギー、イタリア、オランダ、ロシア、スウェーデン、インドネシア、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドでよく食べる。

関東流と関西流の違い 裂き8年串3年焼き一生

鰻は蒲焼という料理法がなかったら、これほど、日本人に歓迎され、人気があったかと思われるくらい、その材料をうまく調理したものである。
室町時代から江戸時代を経て、現代の蒲焼へと、その伝統は受け継れてきたが、地方によって、その蒲焼の方法が異なり、関東と関西でも違ってくる。関東流は背裂きにして、二つに切ってから、竹串に刺して、皮の方から焼き始める。関西流としては、腹裂きにして、背鰭、尾鰭、頭をつけたまま金串に刺し、焼く場合、以前は肉の方から始めたが、現在では皮から焼く方が多い。
日本では、昔から、文化面、経済面などで、関東、関西の2区域にわかれ、それぞれ発達するような傾向があり、東京と大阪の中間地点である名古屋附近の豊橋が、関東流と関西流の接点であるとされ、そこに、中部流という料理法が生み出されている。愛知県はうなぎ養殖の本場でもあり、江戸前(関東)と上方(関西)の流儀が混じって、中部独特の蒲焼を作り出し、代表的な蒲焼料理のひとつにあげられている。しかし、現代では交通機関のめざましい発達と、地域住民・調理師の交流で、昔ほどの食習慣の特色が顕著ではなくなった。関東、関西、中部の蒲焼は、どれがいちばん良いのかは難しい問題で、その道の通人であっても、好み、習慣、地域差が微妙に出てくるのが、料理の世界である。そこで、これらの料理法の相違点から比較してみたい。

背裂きと腹裂き

背裂きと腹裂きでは、その鰻の脂肪の多い少ないによって異なるが、その脂肪分は、肉の繊維内に深く分布しており、脊椎骨の両側にもっとも多く分布している。この背の部分を包丁で裂き、白焼にすると、脂肪が肉質部分から、じわじわと表面に出て、焼き上がってくる。このとき、皮を下にして焼くと、脂肪があまりもれずに焼き上がる。中央は低くなるが、背部に当たる両側が隆起して、見ばえもよく、しかもうまく焼き上がる。
腹裂きの場合は、せっかくの脂肪が肉質の中にしみ通らないうちに、炭火の上にもれやすく、火勢を弱めたり、煙が立ちすぎたりして、焼き加減が分かりにくい。そして、焼き上がった肉が皮部に引きつけられて、中央部が隆起する。両側は低くしかも縮んだように、波を打ったようになって、外観がやせたような感じて見劣りする。そこで、背裂きのほうが、外観上は優れているようである。
関東流では、背鰭、尾鰭を取り除くが、関西流では、その作業を省くのがふつうである。しかし、この部分を焼くと、黒く焦げやすく、残っていると、外観も舌ざわりも悪く、味覚上から考えても、取り去るほうがよいだろう。関東では裂いた鰻を大小にかかわらず、2片とするが、関西では焼き上げてから、後で2片または3片に切る。これは、関東では主として110g程度の小型な鰻を使い、関西では150g以上の大型の鰻を使うからである。
関西流では頭も尾も取り除かずに焼き、焼き上がった後、頭と尾を切り上げる。この頭部は、半助(はんすけ)といって豆腐と一緒に煮込む料理を喜ぶ関西人が多い。 しかし、関西流は少し乱暴に焼くことがあるので、せっかくの美味な尾の方を焦がすきらいがある。蒲焼技術からすると、尾の部分を焦がすことは職人の腕にかかってくることである。その点、関東流では頭部を落とし、背鰭尾鰭を切り上げ、上品な仕上がりを意図として調理するため、外観上でも関東流と関西流では差がでる。鰻を裂く技術は別にして、他に串に刺す技術がある。 串は皮と肉との間を通すのだが、この場合、皮に深く入りすぎると蒸したときに身と皮がはがれ、身に行きすぎると串目が出たり、串を抜いた時に身に穴があく。ここがコツを要するところである。
白焼の技術で大切なことは、炭火の熱が鰻全体に平均して当たることである。よく渋うちわを威勢よく8の字を画くようにパタパタあおぐのは、炭火の火熱を平等にして、炭についた灰を取り除き、鰻から落ちる脂肪が、燃え上がるのをおさえるのに効果があるからである。最近ではガスや電気などが使われている。要は熱が鰻全体に平均的に当たることである。器具ではなく技術が必要である。よくいうことに、炭火で焼くと生臭みがとれるなどといっているのは、これはいい伝えにすぎないという意見もある。白焼は100回の手返しが必要という。それによって、蒲焼のてりと風味がでるのである。そして白焼した鰻を蒸すことは、不用の脂肪を除き、肉をやわらかくするために不可欠な技術である。蒸す時間や温度が鰻によって異なるため、秘中の秘という。
次はタレをつけて、本焼の番となる。この場合、白焼と同様、あるいはそれ以上に、うちわが重要な役割をはたす。 タレが炭火の上に落ちて焦げる煙が、鰻の表面に当たって、一種のくん製のような作用をはたし、蒲焼特有の滋味と風味をもたらすのである。タレを3回つけて焼き上げる。このときタレが乾く程度に焼くことが大切である。蒲焼のうまみは、種々の要素が、おり重さなって出来るのであるが、そのうちで、タレは蒲焼の生命ともいえる。そこで、タレの作りかたは秘伝であり、蒲焼屋のノレンわけは、タレをわけることを意味している。タレの作りかたの基本は、みりんとしょうゆの同割である。まず、ゆっくり煮詰めたみりんに、サッと煮たしょうゆを合わせるのが原則である。この原則、とても考えられないくらいに微妙な作用をする。従来はみりんでタレの甘味を出
し、また照りをつけたものであったが、砂糖、水飴(みずあめ)、ハチミツを少量使う場合もある。また、酒を入れたり、鰻の骨を焼いたものを入れたりする工夫が秘伝のようである。しかし、タレは古いものほどよいといわれているが、これは大いに疑問である。 繁盛しているお店ほど新しく、つぎたさねばならないが、そういう店のタレがまずいとはいえない。使い古したタレには、鰻の油が入りすぎて、コクというよりも、かえってしつこすぎることがある。関東風の中串を例に、裂き・串・焼きを紹介したが、関西風(名古屋地方も)は、地焼きといって、蒸しの工程が省かれ、白焼からすぐにタレつけになる。つまり、蒸して脂肪を抜くことがないため、蒲焼には鰻の精分が満ちあふれている。そこで、生粋の浪花っ子は東京の蒲焼を気の抜けたような味だという。しかし、舌の先で、ふわっと、とろけるようなやわらかさが東京の蒲焼の生命である。一方、皮に少し歯ごたえがあり、少々焦げ目もある大阪の蒲焼はしつこく濃厚である。だが、世の中が、かるい味のものへ……という風潮が、この関西風の蒲焼にも現われて、地元でさえ、大阪風地焼きに出合うのが珍しい昨今である。

庖丁(ほうちょう)と爼(まないた)

ものを切り裂く道具は武器であり、工具であり、調理具として旧石器時代から用いられたが、初めはその区分がなかった。素材は、頁岩(けつがん)(粘土が凝結してできた岩)や黒耀石(こくようせき)などの石材に、ある角度から圧力を加えると、刃のように薄い貝殻状の薄片が欠け落ちる。これを利用して、精度のよい刃物を手に入れたり、鹿の骨などを利用して刃物とした。
金属器の利用がはじまる弥生時代に、調理に用いたと思われる鉄製の刃物(刀子(とつす))が発堀されている。奈良時代の文書に「刀子」があり、『和名抄』では和名で、かたなとしており庖丁という言葉はまだない。同じ奈良時代に今日の爼にあたるものが「切机」と呼ばれて伝来した。
庖丁と爼の語源は、庖には台所の意味があり、丁とは、それを使う人のことをさした。つまり庖丁は魚や鳥を料理する人をいい、魚類を切る庖丁刀を俗に庖丁というようになった。爼は、真菜(まな)を調理する板。真菜とは中心的な副食をいい魚や鳥などの真菜用の切机が、真菜板と呼ばれ、7つの用途に使い分けられていた切机を代表する名称になった。
平安時代になると、庖丁の技が流派を生み、中世の宴席で、その技の公開が、ひとつの儀式となったのである。 この当時から、庖丁をさばくことが専門職として確立し、現代まで続いている。
魚、とくに鰻を裂く技術は、とても素人では無理であり、職人芸であるのは、古川柳に詠まれることでも理解できる。次に関東流では、素焼の後で蒸すのが、ふつうであるが、関西流は蒸しをしないのがふつうである。 もっとも、関西流は、俗に“まむし”といって、この名の起源としては、飯と飯の間に、鰻をはさんで蒸すことから転じたのである。そのため、温かい飯の間で蒸されるから、関東流のように蒸す必要がないのかもしれない。どんな料理でもいえることであるが、うまいものを作るには、材料(鰻)の吟味(ぎんみ)はもちろん、これを選んでから、調理するまでの細かい技術と、多くの体験にもとずく熟練が大切なのはいうまでもない。伝統ある蒲焼料理も、これら職人気質の腕に支えられて、今日まで続いてきたのだが、この職人さんが時代の流れか、また世の中の風潮が、スピード第一となり、これらの調理が、機械化されたこともあるが、原則を大切にして仕事する事が必要である。
鰻料理は栄養価が高く、健康食品としてビタミンAとEを多く含有する鰻が見直され現在、この伝統料理を受け継いでいくには、昔気質(むかしかたぎ)の風潮だけではなく、現代風の修業があってしかるべきである。だからといって、炭火がガス、機械化されたといっても職人の技術は磨くべきであり、味覚の問題も、時代と共に研究と工夫が必要である。 伝統の味を伝承することは、その料理法の伝統を守ることも大切である。そして、その時代に合った調理法、味覚に対応して新たな料理法を考えるのが、現代気質の職人の務めである。それには、鰻料理の全般についての基礎をしっかりと身につけ、その知識、技術を土台に、新時代に即した料理が生まれるものと思う。いつの時代でも、常に工夫し、研鑽(けんさん)することはいうまでもない。

鰻調理の基礎知識

「裂き」「串打ち」「蒸し」「焼き」といった限られた技術なため、習得すると単調な、くり返しの作業にすぎないと考えたりする。特に天然ものの時代は、産地、獲れた時期によって、鰻の品質が異なり、「蒸し時間」は職人の腕とされている。 頭より先に手を動かし、理屈より身体で覚えることで雑な仕事をせず基礎をしっかり覚え、ていねいな仕事ができることである。基礎的なものを覚えるには、細かい点にも気を配る注意力を養うことであり、ひとつの例で、今まで炭火で焼いていた職人が、ある事情で、ガスか電気にかわったときに、炭火でないと蒲焼が焼けないでは、基礎的な技術が身についていない。つまり、焼くことの本質は、焦がさず、平均的に十分鰻の身に火を通すことなのだから、炭火と同じに、何度も返し、熱の対流に絶えず注意を払い、空気を送りこむことに気づくわけである。基本をしっかり身につけておけば、状況がどうかわろうとも、本質を忘れずに生かし、応用をきかすことで、従来よりも、別の技術手段を発見することになる。 基礎知識としては、まず鰻に慣れることである。鰻の体表面は、粘膜があって、つかみにくいが、そのコツは、鰻の尻尾に力を集中させることである。暴れる鰻は尻尾を力強くつかむと弓なりになり、動きの範囲が決まるので扱いやすくなる。鰻の口から10cmほどを左手の3本指で押え、親指とひとさし指の間に頭を出した形で裂き台に持ってくる、関東風では背側を手前にして、口は斜め下にさせてつかむようにする(背開き)。鰻は生きたまま裂くので、つかみかたのコツができても、なかなか難しい。そこで輸送中に死んだ鰻を裂きの練習台にするといい。鰻は長い身を、ひと息で一気に手早く裂くのがコツであるが、初めは難しく、どうしても包丁の刃先がスムースに動かず、手もとが狂ったりしてしまう。そこで、慣れるまで、小さな鰻やどじょうで練習し、これが出来るようになったら次第に長目の鰻を裂くことが良い。串打ちは金属の爪をつけておこなうようになったので、ケガが減ったが、身と皮の微妙な位置に手早く串を打つので、ケガがつきものである。そのケガをおそれていては、完全な仕事はできるものではない。白焼では、炭火の場合では充分におこった炭の上で(強火)、何度も返し、身の中まで火を通すのが基本であるが、つけ焼はふせ火にして、じんわりと焦がさぬように焼き上げるのがコツである。また、つけ焼きのとき、タレのつぼにドボンと浸したら、しずくはあまり切る必要はない。炭の上に落ちたタレが煙となって、蒲焼の表面について、うま味と香りにかわる大切な要素である。食べ物を扱う仕事上、衛生管理はもっとも気をつけなくてはいけない。 包丁は常に最高の切れ味であるように、砥石で小まめに研ぐことであり、砥石は常に面が平らになっているように整備する。 裂き台、手水桶は常に清潔さを保ち、使用後は、血などをよく洗い流しておくこと。 串も使った後は、その日のうちに洗うように習慣づける。タレがめも、皮目の焦げつきなどが浮くので、毎日取り除き、タレの変質をふせぐこと。 蒸し器、うなぎざるなどは毎日よく洗って、汚れがついていないようにするのは勿論のこと、調理場全体も、きれいにかたづけ清潔にすることが大切である。身の回りもきれいにすることが、きめ細かい作業につながり、うまい蒲焼を供することになる。

あみ
いわゆる、ふつうの蒲焼のことで、1尾を開き、横に切ったものを並べて、3本~4本の串に刺したものである。大きさによって、大串(380g以上のもの)、中串(220~250gのもの)、小串(110g程度のもの)の区別がある。
いかだ 
細くて小さい鰻を裂いて、横に切らずに、1尾のまま、2尾か3尾を並べて串に刺して焼いたもの。その形がイカダに似ていることからこの名がある。この場合、幅が2cmまでで、3cm以上のものは小串の部類に入れる。細く小さい鰻であるので、油も濃くなくしつっこくないのが特徴で、鰻通(うなぎつう)と称する人たちや婦人に好まれている。天然鰻全盛時の関東では、春と秋に霞が浦で獲れる鰻は、いかだ焼にして好評であった。

裂き
1.関東流の裂きは背開きで、まな板と手に水をつけながら、骨にさわぬように、生きた鰻を手早く裂く。
2.庖丁のもとで、かまビレの少し上に、背のほうへ2/3ほど、庖丁目を入れ、おとなしくさせる。
3.頭に目打ちをする。目打ちは、まな板の1個所を使うので、次の鰻にさす直前に、前の頭をはずす手順となる。
4.左手で庖丁と身を支え、骨の上を庖丁でこするように背開きする。主に親指とひとさし指の先で庖丁を支える。
5.身を開き、左手で肝をひっぱるようにして、手早くはずす。
6.庖丁のもとの、中心より先を使い、中骨を尾先まで手早くはずす。この時、手前の腹骨もいっしょにはずす。
7.向骨を取り、腹のうす皮と平行に、2、3本の庖丁目を軽く入れ火の通りをよくし、焼き上がりを均一にする。
8.庖丁のヒレ引で、尾ビレと背ビレを取る。
9.身と身を合わせて腹ビレを引く。
10.ふたたび身を開き、2つ切りにする。4対6の割合で尾の側を長めにする。
11.裂きアガリ。尾の方を上に2枚1組として重ね、裂き台と向かい合った串打ち台に渡す。
串打ち  関西では金串を使い熱伝導の効果も得ている
12.関東流の串打ちは竹串を使い、皮と身の間の微妙な位置に縫うように串打ちする。左手の中指には竹串がワレてささらぬ様にステンレスの爪を着ける。
13.元串は左より2cmほどあけ、その他の串は等間隔で打つ。縫い串の要領で、皮と身の幾分身側に寄った部分に打つ。
14.尾の方と頭の側、各々に串打ちした“小一”と呼ばれる形・尾の側と頭の側をいっしょに串打ちする。“あみ”と呼ばれる形。
白焼   白焼きは関西より関東は人気がある。焼きは非常に熟練を要する仕事である。
15.鉄灸の上に皮めを下に並べる。上に頭の側、下の尾の側。串先は鉄灸の上におさまり焦げにくい。
16.真ん中が1番輻射熱を受けやすいので、焦げやすい。まず、すぐ下の身に重ねる。
17.最初に移した身を輻射熱の少ない左端上にする。移すときは端の串1本をつかんですばやくする。
18.火の具合をよく見て、火力の強いところから焦げ目がつきすぎないように手早く返していく。
19.全体を返したら、火の通りのよくない身を移し、まんべんなく輻射熱を吸収させる。
蒸し   関西は基本的に蒸さない「京都は省く」
20.パットに白焼した鰻を並べ、蒸し器のすぐそばに置く。
21.蒸し器に斜めに入れて蒸す。手でおしてみて柔らかくなったときが頃合いである(約20分)。
22.親指と人さし指で元串をハサみ串の間に指を入れ、左手指で左側の串を持ち補助する。
つけ焼  おおよそ関西ではタレを掛けるが関東は漬ける
23.タレ付けは3回で平均してつけ焼する。火加減は白焼より弱くする。

養殖の発達で大変化した鰻の流通

物が自給量以上に獲れたり、生産されると、交換・売買の流通問題が起こる。 鰻の流通にも、このような現象があり、とくに戦後に大きな変化が現われた。
そこで、明治30年ごろまでの天然鰻中心時代、昭和初期からの天然・養殖共存時代、戦後の養殖(生餌中心)時代、配合飼料の普及による生産地拡散時代、台湾鰻の参入時代の5つにわけ、流通機能、生産量、生産地の変化などを考える。鰻は次第に年間商品となりつつあるが、まだ夏期(6~8月)に年間の36%消費しており、したがって、この需要期には流通経路も少し多岐にわかれることもあるが、ここでは、主なルートのみを扱うことにする。 鰻が本格的に商品化したのは江戸時代と思われる。現在も同様であるが、鰻は食べる間際まで生かしておく必要があるため、川魚商から、料理屋までの距離的な制約が長い間解決できず、ごく最近まで流通面での重要課題であった。漁獲量も、1人当たりでは、少量であるため、全国の主産地に、集積業者(現地問屋)が現われ、消費地に消費地問屋が誕生し、産地と消費地を結びつけた。これらの問屋、料理屋は鰻を生かしておく必要から戦前までは、湖、沼、川のほとりで営業していた。しかも、天然鰻のみの時代は、鰻の習性から、冬は捕獲量が少なく、夏中心の商売となり、冬期は鯉、カキ等を取り扱っており、このような形態は昭和になっても続いた。一方、晩秋に採った天然鰻を泥池する。(蓄養して冬眠させ、市況に合せて出荷する方法)露地養殖では同様のことを行なっているが、現在のハウス養殖では行なわれていない。この時代の問屋の機能で、もっとも重要なことは、集積機能である。つまり、不安定な供給量を打開するため、絶えず各地の情報を収集し、買い求めることと、現地の業者に資金援助をして、その供給量の安定化をはかったのである。明治32年ころから、商品化してきた養殖鰻の出現は流通経路に一大変化を起こした。 戦前と戦後では養殖の形態が異なり、戦前では、各池主が生産単位となり、戦後は水産協同組合法による運営が大半を占めており、その違いが流通経路に大きな影響を与えている。天然鰻中心時代は、主産地と消費地の問屋は情報網、取引網を広げることであったが、養殖鰻がウエイトを占めはじめた昭和7年ころからは、供給量の安定している養殖ものが消費の主流となり、消費地問屋と生産者(養殖池主)との間に、生産地問屋が発生した。鰻の流れは、消費地問屋を中心に見ると生産者直接取引と、生産地問屋取引の2つのルートにわかれる。当時は資本力、指導力のある有力消費地問屋が、集荷能力を持っており、生産者とも、飼料、生産技術等についても、共同研究する姿勢があった。その結果、問屋と生産者との特別な結びつきが顕著になり、有力消費地問屋に荷が集中し、消費量の多い大都市では、いわゆる仲間買いが発生した。また、東京の有力問屋は、距離的制約から東北などの地方への中継的存在となり、第2次問屋的機能も果たすようになった。当時は交通機関、道路事情も悪く、生産地の販売地域も制約を受け、静岡、愛知、三重の東海地区生産地が、シラスウナギの採捕、生餌の入手等の立地条件と重なって、東京、大阪の大消費地をバックに大きくシェアを拡大してきた。戦争末期の食糧事情により、中止されていた養鰻も、昭和26年には回復してきた。戦後は水産協同組合法にそった組織による鰻の生産がウエイトを占め、現在の国内鰻生産量の大部分は、農業協同組合、漁業協同組合の団体組織によって、生産されるようになった。したがって、戦前の生産者と生産地問屋あるいは、消費地問屋との結びつきは、次第に団体の取引に変わってきた。 そこで、生産者と消費地の立場に変化が起こった。それは今まで一生産者の生産量による供給量に限界があるため、問屋筋で各方面に鰻を求めていたものが、戦後は生産者団体の生産量の増加、あるいは各単協間の競走などがからんで、生産者からの売り込みが活発になった。また、交通機関、道路の整備、パッケージの発達により、従来の生きものである為の時間的、距離的販路の制約が次第に解除された。 生産地においては、地元問屋と生産者団体との間に調整問題が生じ、消費地においては、従来の有力問題への集中出荷が、だんだんと薄れ、生産地と各問屋との直接取引が多くなり、分散化されたきた。ここに専門的には、流通経路の短縮化現象が生じたわけである。この時代の問屋の機能は情報機能よりも蓄積機能、危険負担、サイズ品揃え機能に力を注ぐようになってきた。 配合飼料は、昭和33年ころから東海区水産研究所で研究されたのが最初で、昭和39年ころから実用化され、現在は養鰻の飼料として、85%が使われている。
配合飼料の内容については省略するが、この配合飼料の普及によって、飼料の保管管理、入手が簡単になり、温水止水式養鰻生産法の普及とあいまって、従来、餌、気候などの条件の制約を受けていた地域にも、養鰻業が拡散されていった。その結果、昭和30年には、旧産地(静岡、愛知、三重)のウエイトが97%であったものが、昭和56には51%になっている。
このように生産地が、関東から九州までほぼ全国的に分布されると、流通経路も変わってきた。 新興地の鰻が、どんなルートで流通しているのか?これは大消費地をひかえた千葉周辺と、四国、九州では少し異なってくる。千葉では、直接東京の問屋及び公営市場へ流れているが、四国、九州の生産品は極論かもしれないが、旧産地の大消費地であった東京と大阪、名古屋をほぼ名古屋地域を境に生産地の供給先が分割された感がある。しかし、旧産地の生産地問屋においては自分の取引先の需要量を地元で調達することが、困難なときは、四国、九州へ供給源を求めていき、供給源と供給地は、かなり交差している。これを可能にしたのは、交通機関、道路の整備、パッケージ、運送機能の発達によるわけである。 昭和43年ころより生産が開始された台湾産鰻は、生産量の90%以上は日本国内の市場を目的とした製品である。現在日本国内の消費量の3分の1は、台湾鰻で供給されるほどに成長し、その鰻を扱う企業も成長してきた。では台湾鰻の輸入ルートと国内生産鰻の流通への影響を考えてみよう。 台湾鰻の輸入については、活鰻と加工鰻では、おのずから異なる。ここでは活鰻を中心に述べるが、台湾鰻の物流は、すべて航空便で輸送され、全輸入量の8割は成田空港に、あとの2割が、大阪、福岡等に到着する。この輸入業務は、極端にいえば誰でも出来る。しかし販売ルート、資金量、信用等によって継続的に台湾の生産者あるいは商社と結びつき、国内の需要、価格等も判断して、経営的な輸入をするには、かなり難しい問題がある。こうした理由から、2つのルートに分けることができる。つまり、ひとつは輸入商社であり、もうひとつは、問屋(主に生産地問屋)の直接取引の2つである。商社は台湾鰻を買いつけて、消費地問題及び生産地問屋へ販売する。成田空港に輸入された場合を例にとると東京周辺の問屋及び旧生産地の生産地問屋へと流れるのが、主なルートである。 輸入業者が輸入した鰻は、最終需要者のニーズに合うように、サイズ、品質等の選別が厳格でなく、また、輸入商社は貯蔵機能を有してないので、ロットで販売される。したがって、輸入鰻を商社から購入する問屋は、選別した鰻を、それぞれ処理出来るような能力を持っている大口の問屋に集中されるわけである。輸入鰻を入手した問屋の選別、貯蔵、末端への供給等の経過は、国内ものと同じ流れである。国内産、台湾産ともに原料のシラスウナギはアンギュラジヤポニカである。 同じシラスウナギということで、飼料もほとんど同じである為、品質は季節によって、少し異なるが、まったく変わりない。 では、年間15000トン前後輸入される台湾鰻が日本国内に、どんな変化を与えたのだろうか? これは生産と消費の相互関係によって、生産量の安定した増加により、販売部門が積極的な消費拡大の販売方法、組織作りをおこない、鰻業界の各分野の努力と協力によって発展してきた。
従来の専門店とは別に、拡販店が成長してきた。専門店は伝統的な調理方法で、長時間をかけ、回転率よりも利益率を中心とした経営方法であり、拡販店は、利益率よりも回転率を重要視した販売方法で、お客を待たせない安価な鰻の供給を最目的とした販売、調理工程の工夫、仕入努力によって、消費者のニーズに応えて定着してきた。この新しい販売形態が今日の消費者への鰻の普及に、大きく貢献したことは、業界にとって、とても重要なことである。 こうした拡販店の需要量を満たすため、従来の生産地の供給量だけでは応じられず供給源を求めて、全国、または海外へ需要側からもルートが拡大してきた。鰻の流通経路について、天然鰻中心時代から、生産過程の変化に応じて、今後の問題点についてふれてみると、 現在、原料のシラスウナギを天然ものの採捕に頼らざるを得ない為に、シラスウナギの採捕量によって生産量が制約されている。 しかし、アンギュラジャポニカ種のシラスウナギの採捕地域が、日本、台湾、中国大陸、韓国と広範囲に広がっており、各国国でシラスの採捕について関心が強まっていることから、昔ほど極端な豊凶の差はなく、製品としての生産量は国内外を合わせると次第に平準化されていると思われる。生産地の国内外の分布の中で、最近目立ってきているのは、中国大陸の鰻の養殖熱と韓国の従来の半製品(クロコウナギ)から成鰻生産への意欲だろう。また、ニュージーランド、アメリカ等世界的にも、鰻生産に関心を寄せていることも注目される。 こうした広範囲の生産地の拡大がなされれば、新たな流通が考えられるかもしれないが、活鰻として流通する為には距離的制約を解決する必要があり、加工鰻としての流通とならざるを得ないような感がある。鰻問屋の持っている貯蔵機能、サイズ選別機能、品質選択機能等は、他の業界の問屋部門では見当たらない特殊な機能といえる。 こうした、機能を流通部門が持っている為に、10年ほど前から、他の業界で試みられている問屋無用論的流通経路の短縮が、実験されてきたが、蒲焼商の消費量、貯蔵及び生産者の年間を通じての供給能力等から失敗に終わっている。これまで、活鰻の流通経路に限って述べてきたが、この他にも、相場の問題やますます生産量が増加している加工鰻との関係も無視するわけにはいかない。最後に、食料支出が低迷している中で、昭和50年から見てみると、エンゲル係数は(消費支出に占める食料費の割合)年々低下しているにもかかわらず、食料費に占める外食費の割合は上昇している。この調査の外食とは、営業許可を受けた設備の店の飲食費と料理飲食等消費税を含み、出前は含むが、持ち帰り用は含まない。外食化の傾向は、外食産業界のより厳しい競走が予想でき、鰻業界も、それに負けない対応が、ひとつの問題といえるだろう。

「うなぎに関する本より引用」